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楽じゃニャン [猫から考える共生社会]

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精神科医の樺澤紫苑がこんなこと言っています。
「変えられないことで悩むのが世の中の最大のストレス。
 変えられないものの典型は過去と他人。
 他人を変えるくらいなら自分が変わったほうが
 何倍も楽に生きられる」

ぼくが茶道や書道をやっているのは、もちろん楽しいからだけど、
日本の美しい伝統を守ることにひと役買えたらと思うからでもあります。
声を上げて間違いを正すことも大切で意味のある行動だけど、
変わってほしくない文化を静かに学び伝えていくことも
ふるさとを守っていくひとつの方法、生き方だと思うから。
自分らしくいられれば、それが手の届く人の笑顔につながれば、
社会に対して無力感など抱く必要はないと思うから。

写真の猫は、以前も一度ご紹介した、
ぼくがお茶の稽古に通っている都内某寺院にいる子。
お尻のあたりが楽茶碗に見えるのは、思い込みが過ぎるかな。

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愛と科学と毛 [猫から考える共生社会]

猫だって、風邪ぎみだとか、お腹が痛いとか、
「何だかちょっと調子が悪い」くらいの日はあると思います。
でも人間には、すごく具合が悪いときしか、わからない。
「今日はおとなしいな」くらいにしか見えなかったりします。

のら猫の寿命は4〜6歳、室内飼猫の寿命は14〜18歳と言われている。
もともと猫の世界には、からだにいいカリカリも、病院もありません。
とすると、本当の猫の寿命は4〜6歳なんだろうか。
それとも、猫にとっていい環境が揃っていれば、
のら猫でも14〜18歳まで生きられるんだろうか。

猫自身には、病院に行くという発想はないから、
基本的に自分で治そうとします。
もし人間の世界に病院というものがなかったら、
寿命はもっともっと短くなるだろうけど、
生きている間は健康な人が増えるんじゃないかなとも思います。

科学が発達して、薬や医学があって、電気があって、
からだにいいと言われる食べ物がたくさんある人間って、
猫より幸せなんだろうか、って疑問に思ったりします。
でも、科学のおかげで、からだが不自由な人も生きて行けて、
笑ったり、幸せを感じたりできる。
それは人間の素敵なところ。
科学は愛から生まれたんだと思います。

きっと、科学をはじめとする人間の知恵の多くが、
いまは、愛じゃないものから生まれたり、
愛じゃないもののために発達してしまっているから、
こんなことを思ったりするんだろうな。

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結局、病院には行かなかったけど、
ドラムのハゲは毛が伸びてきました。
ご心配をおかけしました。大丈夫そうです。

ドラムの新しい毛を見ながら、原発再稼働のニュースを聞き、
反対とか賛成とかじゃなくて、こんなことを考えたわけでした。

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ドラムのからだの特徴。
顔が小さい。手が大きい。
何か見ちゃいけないものを見てしまったのかね。


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個体差 [猫から考える共生社会]

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どんな動物にも個体差というものがあります。
生まれつき足が短いとか長いとか。
ところが、人の場合、すごく短いと障がい者なんて呼んだりします。
たとえば、ある年齢層の人が100mを平均20秒で走るとして、
足が短いが故に30秒かかったとしても障がい者とは呼ばないのに、
1分かかったりすると、足が短いことを障がいって呼んだりするわけです。
考えてみると、変な話ですね。
10秒で走る人は障がい者って呼ばないんだから。
もっとわかりやすい例で言うと、
もしいくつかのスポーツがなかったら、身長2mの人は
障がい者って呼ばれたかも知れないってこと。
平安時代の美人と今の美人はまるで違うってこと。
たいていの物差しには普遍性なんてない。

ぼくは生まれつき目の機能に軽い不自由な点があるのですが、
生まれつきだから、ぼくにとってはそれが当たり前で、
違いを自覚するのは、人にはできて自分にはできないことに
直面したときだけです。

テレビやブログで、脚がなかったり、目が見えなかったりする
犬や猫の姿を目にすることがありますが、
彼らは決して自分が不自由だなんて思っていません。
車椅子を着けていても散歩は楽しい。
ほかの犬や猫と自分を比べたりしないからです。

ドラムとリズムは兄妹だけど、いろんなところが違います。
ドラムは舌が長くて、水を飲むのがすごく上手だけど、
リズムは短いから、カリカリを食べるのが遅かったり、
皿にためた水を飲むのが下手だったりします。
でも、そんなこと比べたりしないから、仲良く一緒に暮らしています。

誰の言葉だったか忘れたけど、幸福を比較で計ってはいけない、
と言っていたのを思い出しました。
もちろん、人によって違う、できることやできないことで
役割分担したり助け合ったりするのは大切だけど、
少なくともぼくは、人に限らず生き物を
表面的な個体差で比べて優劣をつけることは
しないようにしたいと思います。
ついやってしまうんだけどね。

ドラムの長い舌を見て考えたこと。

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猫カフェの営業時間 [猫から考える共生社会]

動物愛護法の改定により、6月から猫カフェの営業が午後8時までとされます。
「夜行性なのに…展示時間制限に猫カフェ困惑」(YOMIURI ONLINE)

正確に言うと、猫カフェだけでなく「犬と猫の展示」に対する時間規制で、
メインのターゲットはペットショップ。読売の記事にもあるように、
審議会の委員の中には、猫カフェの存在を知らなかった人もいるほどですから、
猫カフェはとんだとばっちりを受けたわけです。

規制の発端は、風俗店と協力体勢をとり詐欺まがいの商売をする
深夜営業のペットショップの存在です。手口はこう。
 風俗店で働く女性が男性客に犬や猫を買ってほしいとねだる
  ↓
 協力体制にあるペットショップに一緒に行って犬や猫(高額)を買ってもらう
  ↓
 買ってもらった犬や猫をペットショップに返しに行ってマージンをもらう
  ↓
 ペットショップはまた同じ動物を同じ手口で別の客に売る

ところが審議会や環境省は、あくまでも動物愛護という建前しか言いません。
しかも、細かい規制をするのは面倒だから十把一絡げにしているのが現実。
だから矛盾や疑問が生まれるのです。
猫カフェ側から、「猫は夜行性だ」「ちゃんと休ませている」
「うさぎカフェはなぜいいのか」といった声が上がるのは当然です。
しかも、前述のようなペットショップは、おそらく法改訂が行われても、
マンションの一室などで営業を続けることでしょう。

どうしてお役人ってこうなのでしょう。
いわゆる「世の中のしくみ」がわかっていません。
世間知らずが社会を規制しているのです。

先日、大阪市の動きに対する意見でも述べましたが、
動物愛護をうたうなら、順番が違います。
動物愛護のために、いま日本で早急に整えなければならないのは、
ブリーディングと売り方への規制だと思います。
そして戸籍に近いペットのトレーサビリティの確率です。
健全に育成された動物、あるいは保護された動物が、
正しく売られ、あるいは譲渡され、
飼い主は漏れなく届け出をしてその生命に責任を負い、
死亡までを見届けることを義務化することを考えるべきでしょう。
逃げ出して行方不明になる犬や猫もいますから法の穴はできますが、
保護施設の充実で二次的にカバーできることもあります。

猫カフェの是非については意見の分かれるところでしょうが、
少なくとも、問題を猫カフェに矮小化してはいけません。
審議委員を選ぶとき、愛猫家や愛犬家も入れなくっちゃ。
ドイツなど、いいお手本もあるわけだしね。

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一緒に暮らそうよ [猫から考える共生社会]

Ja-Kou66さんのブログ「reminiscence」の記事より抜粋させていただきます。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
前市長まで、大阪市の進めてきた
【街ねこ制度(所有者不明ねこの適正管理推進事業)】とともに
大阪市が管理する都市公園での所有者不明ねこ(いわゆる野良ねこ)
をめぐる様々なトラブルを防止するため
【公園ねこサポーター制度】という取り組みを実施していたそうです。
ところが、改革を売りにされている新しい市長に変わってから
この取り組み自体が「必要の無い予算」として
凍結・廃止される動きとなっているようです。
それとともに、新しく
「罰則付き餌やり禁止条例」の検討を行っている議員もおられるそうです。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

Ja-Kou66さんも書いていらっしゃいますし、ぼくも何度か書きましたが、
たしかに問題のある餌やりの現実や糞尿被害もあります。
猫が嫌いな人がいるのも仕方ありません。
行政が野良猫対策に予算を付けることへの賛否もあるでしょう。
でもやはり、野良猫排除の立場にある多くの人たちには、
その発想の中に大きく欠けていることがあると思うのです。

近年の日本は何事もそうですが、
出口の外装を塗り直してばかりで、入口にまるで手をつけません。
野良猫の問題も、まず考えなければならないのは、
売買の仕方や飼い方であり、
糞尿問題や好き嫌い、どう対処するか等ではなく、
多用な人の価値観や感情をいかに社会が認め合っていくか、
あまたの生命といかに共生していくかなのだと思います。

いま世界は、多数決を金科玉条とする民主主義の大義名分のもと、
価値観の違う人を排除する傾向にあります。
「猫好きは街から出て行け」と言わんばかりの言動は、
人種差別や宗教差別にも等しい蛮行です。
そもそも人間どうしが共生しようとしていません。
そして生命への慈しみ、自らの生命に対する洞察が足りません。
テレビドラマの手垢のついた台詞のように聞こえるのかも知れませんが、
人は一人で、あるいは人間だけで生きているのではないのです。
病院や薬と同じように猫を必要としている人もいます。
我が子のように猫を愛している人もいます。

価値観の違う者どうしがある共同体の中で一緒に暮らせば、
必ず意見や暮らし方の相違は生まれますから、
誰かが何がしかの我慢や譲歩をしなければなりません。
でも、そのとき、知恵を絞り、工夫をし、
特定の人を一方的に排除しないよう努力することこそが、
真の民主主義であり、コミュニケーション能力に長けた人間の
人間らしさなのだと思います。
「生かす」か「殺す」かという二元論しかできないなんて、
悲しすぎます。

人は何をもって「自分は人間だ」と胸を張ればいいのでしょう。
それはたぶん、想像力なのだと思います。
だからぼくは、怒りを覚えるけれど、嫌いだけれど、
野良猫排除を叫ぶ人たちの気持ちも想像したいと思っています。

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